《西日本から東アジアへの玄関口》
門司港は北九州港を構成する港のひとつです。昭和38年の北九州市発足に伴い、外国貿易の門司港、国内流通の小倉港、工業港の洞海港を合わせ「北九州港」となりました。
門司港は古くから大陸との交易が行われ、また、瀬戸内海と日本海を繋ぐ交通の要所として発展してきました。国際貿易港としての長い歴史と実績を持つ港です。
北九州港・門司港地区には4つの埠頭が存在します。そのうちのひとつ、主に外航コンテナ貨物を取り扱う太刀浦埠頭のコンテナターミナルでは、完成自動車、砂利・砂、非金属鉱物、野菜・果物等が取り扱われています。
この太刀浦埠頭には中国からの青果物輸入量の増大に対応するため、燻蒸(くんじょう:外国からの病害虫の侵入を防ぐため、煙でいぶすことで殺虫処理を施すこと)などの施設も整備されています。なんと40フィートのコンテナをシャーシ(※)から降ろすことなくそのまま燻蒸処理できる巨大な設備もあるとか。
※シャーシ:コンテナを運ぶための車輪のついた台車のこと。トラックの運転席部分に相当するトラクタヘッドというパーツと連結して使用される。
《数字でみる門司港(北九州港)》
500km圏内に韓国の釜山、仁川、1,000km圏内に中国の大連、天津、青島、上海があり、その地理的優位性を生かし、主に北東アジアとの貿易拠点となっている門司港。
2022年2月現在、門司港(太刀浦コンテナ)ではCOSCOや陽明海運などの国際定期コンテナ航路が29航路、月間便数にして124便が就航しています。
また、コンテナ取扱貨物量(2020年統計値)は473,393 TEUで日本国内9位。
1位の東京港4,746,579 TEUと比較すると約10分の1の規模ですが、九州では博多港に次ぐ国際貿易の拠点として今後の発展が期待されています。
《門司港といえば・・・バナナ!》
門司港を語るうえで欠かせない要素のひとつ、それは『バナナ』です。
門司港地区の西端に位置する「バナナセンター」では青果を取り扱っており、西日本一円における青果の輸入拠点として機能しています。
バナナといえば門司港。どうしてそうなったのでしょう?
それは、バナナの産地である台湾と地理的に近かったことが要因として挙げられます。
明治時代、台湾からバナナが大量に荷揚げされていた門司港は、独特の口上が特徴の「バナナの叩き売り」発祥の地として知られています。その文化は現在も「門司港バナナの叩き売り連合会」等によって継承され実演や体験も行われている他、“バナナの素晴らしさを伝えるために生まれた妖精・バナナ姫ルナ”という門司区オリジナルのマスコットキャラクターも存在します。
ちなみに現在の日本では、病害虫の侵入を防ぐために定められた植物防疫法により、熟した状態のバナナは輸入できません。
輸入するバナナはすべて、まだ青いうちに収穫して、定温輸送船などで日本に運ばれます。日本の港に到着した青いバナナは、植物防疫法・食品衛生法等の手続きを経て輸入通関を無事パスすると、ようやく出荷にむけた追熟などの加工が施され、普段お店で目にする黄色い姿になります。
《門司港、今昔物語》
土器や住居跡などから、門司は古く縄文の時代から人々の生活の場であったことが分かっています。
門司港近郊の文字ヶ関公園(誤植に非ず)に建つ「門司関址」の碑には、645年の大化の改新の翌年に関所が設けられ、人や船の取り締まりを行った旨が記載されており、門司は都と太宰府を結ぶルート上にあって交通の要所として栄えていたことが窺えます。
門司港周辺の史跡として有名なものといえば、壇之浦古戦場ですね。
平安時代末期に関門海峡において源氏と平氏の最後の戦い「壇ノ浦の戦い」が行われたことは有名です。平氏は彦島や門司に陣を置いていたと言われています。
室町時代には、門司は中国大陸・明国との貿易の基地となり栄えますが、その後、貿易の拠点が小倉や博多に移ると門司の港は衰退し、門司港地区は塩田が広がるのどかな場所となりました。
江戸時代から明治時代にかけて大阪–北海道の北前船航路が発達するとその寄港地であった対岸の下関が繁栄し、田野浦地区は風待ち・沖町の港、船を修繕する港として栄えていきました。
明治22年、沖合の水深が深く天然の良港であることや、本州や中国に近い地理的な条件などか注目され、門司港築港が開始されます。埋め立てや浚渫が行われ、船溜りや水路が作られました。同年には国の特別輸出港に指定され、石炭、硫黄、米、麦、小麦粉の5品目の取扱いが許可されました。また、同時期に鉄道敷設が行われると門司港は筑豊の石炭の輸出港、船舶の燃料としての石炭バンカー港として急速に発展していきます。本州への連絡船や内航船も数多く就航し、セメント工場が作られ、商社や銀行、企業が次々と門司に支店を出しました。
日清戦争、日露戦争が勃発すると、門司港は中国大陸に近い地理を活かし兵士の出港の地となると共に軍用品の需要等でますます成長していきます。
大正3年には神戸、横浜と共に日本三大港のひとつに数えられるほどに成長し、国際貿易の拠点となった門司港は地価の高騰が起こるほどでした。この頃の門司は道路にはガス灯が灯り、洋食品店やカフェなどが建ち並ぶ街にはハイカラ文化が溢れ、数多くの高級料亭や遊郭で賑わい、栄華を極めました。
昭和に入り、大連航路など国際航路が就航し国際港として名を馳せた門司港には、ひと月200隻もの外航客船が入港したといいます。昭和17年には増加する貨物の輸送手段として関門鉄道トンネルが開通しました。
第二次世界大戦において、交通の要所であった関門海峡は敵国の標的となり機雷が多数投下されたため、終戦後も長期間に渡って海峡が封鎖される事態となりました。
門司港の主要貿易相手国であった中国との国交が断絶したことも重なって、門司港は衰退していきます。昭和33年に関門トンネルが開通、48年に関門橋が開通、50年には新幹線が開通し、これらは門司の通過点化を加速させることとなりました。企業は小倉や福岡へ流出していきます。
一方、貨物に関しては門司への集荷が進みました。昭和46年に田野浦コンテナターミナルが、昭和54年には太刀浦コンテナターミナルが供用開始し、門司港はコンテナリゼーションにいち早く対応しました。
平成7年、門司港の新たな取り組みとして「門司港レトロ」がスタートしました。外国貿易で栄えた時代の洋風建物などを中心に街を観光スポットとして整備するもので、国土交通省の都市景観100選にも選ばれた門司港は、現在年間200万人以上の人が訪れる九州の一大観光地として人気を集めています。