日本への輸入ビジネス拠点のひとつとして機能している青島港。
この記事では文化と食の都、山東省・青島港にまつわる歴史について、ご紹介してまいります。
山東省に位置する青島は古い歴史文化を誇り、道教の発祥の地のひとつと言われています。
道教とは、老荘思想のもとになったものとも言われ、陰陽五行説や易占術などは現代の民間信仰にも溶け込んでいます。
そんな山東省の気候は海洋性気候。四季はありますが、一年を通じて温暖です。
夏季の平均気温は24度C、冬季平均気温は、マイナス0.4度Cです。
山東省といえば、中国四大料理のひとつにも数えられる山東料理「魯菜」も有名です。
炸(ジャー /zhá:油で揚げる調理法)、煎(ジァン/jiàng:タレに漬けこんでから煮しめて、味と香りをつける冷菜の調理法)、爆(バオ/bào:熱い油や熱湯で、瞬時に火を通す調理法)、炒(チャオ/chǎo:いわゆる炒め料理)、扒(パー/pá:弱火~中火で長時間加熱して、とろみを付け、整った形にきれいに盛り付ける調理法)などといった多彩な調理法が知られています。
山東料理には、済南料理と膠東料理、孔府料理の3系統がありますが、青島や煙台は、膠東料理の中心地です。
鮮度を重んじ素材を活かすのが特徴で、ナマコ、アワビ、ワタリガニ、ホタテといった海鮮が使われます。
新鮮な魚を蒸した「清蒸加吉魚」や、醤油でえびを煮込んだ「紅焼大蝦」などが有名です。
青島港が存在のは中国山東省。山東省は、北を河北省と接し、南を河南省・安徽省・江蘇省と接する位置にあります。
黄河が山東省西部を貫き、山東省の北部で渤海に流入しています。
4,500年以上の歴史があり、新石器時代の文化や遺跡が残っています。
殷王朝の時代には、青島では早くも塩田が開発され、中国五大製塩地帯のひとつとなっています。
中国の海塩の産地は、山東省、河北省、江蘇省、浙江省、福建省、広東省などがあります。塩は人間の生活に必需品です。
歴代の国の政府は、塩に課税を行い巨額の税収を得ましたが、これがもとで、「塩賊」という密売組織もできました。その大きなものは、黄巣の乱のように国を亡ぼす勢力となりました。
指導者の黄巣は、塩の密売人であり、唐末の875年に山東省・華南省一帯で農民による反乱・黄巣の乱を起こしました。
黄巣の乱の原因は、その年、イナゴの大群が大発生し、天地を覆いました。農作物の全てが食い尽くされ、赤土だけが残る悲惨な光景となりました。
税の取り立ても困難な状況に陥り、唐政府は、塩の密売組織の摘発を強めました。強硬な取り締まりに対し、塩の密売人であった黄巣と王仙芝は反乱を起こしました。
しかし、唐政府の軍の勢いは強く、黄巣たちは攻勢を逃れながら、広州に南下しイスラムやユダヤ商人を襲い、富を略奪して資金を獲得しました。
黄巣は莫大な資金をもとに、大きな反乱軍を組織し長安をめざしました。880年、皇帝が長安から四川に逃れたため、黄巣は皇帝の位につき、大斉という国号を称しました。
皇帝は四川の李克用を唐軍の将軍にして長安を奪回しました。しかし、その後、唐の政治は安定せず、政治の実権を握った朱全忠が皇帝に禅譲をせまり、907年ついに唐に代わって後梁が建国されました。
清代でも、同様の塩の管理制度が引き継がれました。塩の価格が非常に高かったので、1894年に日本は清に日本の塩を輸出しようとしましたが、まったく売れませんでした。その理由を確かめると、中国の塩は品質が良く、技術や生産力も日本に勝ることが分かりました。日本は日本産の塩が国際競争力を持たないことに危機感を覚えて、塩業の近代化政策をとることを決めました。
「史記・秦始皇本紀」には、「徐市」と記され、「淮南衝山列伝」の中には「徐福」と記されています。
「史記」は歴史的評価が高く、史実に近いとされています。実際に徐福が日本に渡ったという史実があった可能性は大きいと言えます。
秦の始皇帝が中国を統一し、始皇帝が泰山で儀式を行い、海を見に琅銜台を訪れました。
その時、方術士の徐福が現れ、「はるか東の海に蓬莱、方丈、瀛州という三神山があり、ここには仙人が住み不老不死の薬を作っています」と申し出ました。始皇帝は大いに喜び、3000人の童男童女を与えて東の海に船出させましたが、徐福はたどり着いたところで王になり、中国には帰りませんでした。
山東省の竜口市には徐福の像が建てられており、徐福が船出したと言われています。
日本の富士山の北山麓には、徐福を祭る「徐福碑」が建てられています。徐福は日本に医学、農業、養蚕、建築技術やその他の文化を伝えたと言われています。
日本には、徐福を祭る神社が20カ所以上あります。
そのうちで最も有名なものが、三重県熊野市波田須町にある「徐福の宮」です。波田須町には徐福が船で波田須に着いたとされることを裏付けるものが数多く伝わり、有力な場所とされています。
徐福は、姓を「秦」に由来する「ハタ」と読む姓(波田、羽田、畑など)を名乗り、窯業を起こし焼き物を作り、村人に技術を伝授しました。さらに土木、農耕、捕鯨、医薬品、製鉄など、この地域になかった文明を次々と伝授しました。そのため、波田須町では、徐福を「徐福さま」と呼んで神格化し、神として崇めました。
劉邦が楚の項羽を破った戦いが有名な「垓下(がいか)の戦い」です。
「四面楚歌」という諺は、この時の項羽の心情を表しています。
項羽軍の敗色が濃くなり、周りには、劉邦の軍勢から「楚の歌」が聞こえてきます。項羽には、楚の兵士が裏切って劉邦の軍にいるように聞こえました。
この戦いには、愛する「虞美人(ぐびじん)」と愛馬の「騅(すい)という名馬を伴っていました。
四方を囲まれた項羽は、もはや勝ち目のないことを悟り、惜別の詩を作りました。最後の一節の「虞兮虞兮奈若何」(虞や、虞や、汝を如何せん)と嘆く項羽の苦しみと悲しみの深さは例えようがありません。
虞美人は項羽の腰から剣を奪い、自害して果てます。こうして項羽は最後の戦いに臨みました。この話は、「覇王別姫」という演目で「京劇」で演じられます。
この劉邦が建てた漢を後の漢と区別して、前漢(紀元前206年~8年)と言います。
前漢の皇帝、7代武帝の時に最盛期を迎え、その勢いは、北は外蒙古、南はベトナム、東は朝鮮、西は敦煌まで及びました。武帝は、幼い時に、青島付近の王として派遣され治めていました。そのせいもあり、青島を愛し、中国の歴史上最も多く青島へ足を運んだ皇帝と言われています。
隋(581~618)の時代に、隋の文帝は、584年に江南地方と首都大興城(長安)とを結ぶ大運河の建設をしました。
長安と黄河を結び、次に淮水と長江を結びました。
これにより、豊かな穀物の生産地の江南地方と長安とを結び、首都圏の人口増加を支えることができました。
604年には、隋の煬帝(ようだい)が、黄河と淮河を結ぶ運河の建設を行い、長江から長安に至る運河が完成しました。
この隋の時代に、日本から遣隋使が5回派遣されました。日本の初代の遣隋使は、小野妹子(おののいもこ)は608年に、山東省の登州に到着しました。その頃のルートは、朝鮮半島に沿って北上し遼東半島に至り、その先に連なる飛び石のような島々を伝い登州に達しています。
【遣唐使の派遣】
唐(618~907)の時代になると、遣唐使が派遣されました。遣唐使の回数は20回になります。
遣唐使のルートは、日本の大阪湾から出港し、瀬戸内海を通って北九州に出て、博多を経由して、壱岐・対馬を過ぎ、朝鮮半島の西岸に沿うかたちで黄海を北上し、渤海湾から山東半島の登州に到着しました。
その後、長安までは、水路・陸路を使うルートをとりました。朝鮮半島で、新羅が誕生すると、日本との間は緊張状態が続いたので、北路は使えなくなり、南路で東シナ海を横断して長江河口付近から上陸して入唐するようになりました。
南路は寧波、杭州を通り、唐の国に入りました。遣唐使船には、政治家、官僚、僧などが同行し、唐の政治制度や文化、仏教などの経典が日本にもたらされました。
山東半島の登州は、唐時代の707年に堅固な軍港として建設され、今でもこの港は「水城」と呼ばれています。高い城壁に囲まれた水路により沿岸の都市や海外との交易が行われました。
北宋時代には、青島地方には、貿易を管理する市舶司という役所も置かれました。
当時の宋船の構造を見ると、大量の物資を運ぶのに適した船型に改造されていきました。
外洋航海に適した大型の船型になり、中国から直接日本に航海できるようになりました。船型も現代の船の形に近い流線形となり、大きな波の影響を直接受けないように改良されています。居住空間も大きくなり、長期航海に適したものになっています。
宋(960年~1279年)の時代には、960年に趙匡胤(ちょうきょいん)が宋を建国し、皇帝の独裁制を樹立しました。第2代の太宗は979年に中国を統一し、都を開封に定めました。唐末から五代の節度使による武断政治は解体され、中央集権国家となりました。
貨幣経済が発展し銅銭である宋銭が大量に鋳造されて、国内に流通しただけでなく、海外にも流出していきました。
このような経済発展を背景にして、中国商人による海外との交易が行われ、インド洋にまで船で行くようになりました。広州、泉州、明州(寧波)、温州、杭州などの港町が栄えました。
宋は、広州、泉州、明州(寧波)、杭州(臨安)、温州、青島などに市舶司という役所を置き、商人の出入国手続き、貨物の検査、禁制品(武器など)の取り締まりや徴税を行いました。このうち明州は、日本からの交易船の入港地として指定されていました。
日本と宋の間では、遣唐使が894年に廃止されてから、朝廷から使節が贈られることはなくなりましたが、貿易は盛んに行われました。
日本の貿易港としては、敦賀(つるが)港や博多港が貿易港となりました。平安時代の平家は、日宋貿易に着目し、舶来品を朝廷に献上し、高い地位を得ることに成功しました。
平氏が政権を握ると、伊勢から産出する銀を主要物資として、中国の陶磁器、絹織物、書籍や文具、香料や薬品、美術品、宋銭などを輸入し、朝廷への献上品として使い、権力を拡大していきました。宋銭はその後の日本経済にも影響を与え、貨幣の流通をもたらしました。
平清盛(たいらのきよもり)は、日本で最初に博多に貿易港を築き、宋との貿易を推進しました。1173年には、現在の神戸港の一部を拡張し、宋との正式な国交を開いて貿易振興策を行いました。
当時の宋は、遼(りょう)・金(きん)・西夏(せいか)・大理(だいり)などからの侵入に備えるために、火薬の原料となる硫黄を求めていました。日本からも硫黄が大量に輸出されました。
平家の滅亡後、日宋間に正式な国交はなくなりましたが、鎌倉幕府は民間貿易を認めたため、博多には多くの宋人が多く住むようになり、博多は国際貿易港となりました。宋の商船は、福建や寧波から日本の博多に来航しました。
南宋の時代には、日本との間には民間貿易が続き、1年に40~50隻の船が中国に渡りました。宋の滅亡後も、日元貿易は継続して行われました。
元時代(1271年~1368年)に、綿花の栽培が盛んになり、イスラムの世界とも交易が盛んとなり、広州、泉州、明州、温州、杭州などの港と往来が始まりました。
元代には華南地方の物資を効率よく華北に移送するために、山東半島を南北に貫く膠莱運河という海路をつなぐ運河が掘られました。この元以降、青島は膠州の州都として君臨することになりました。
清末には、1891年6月14日、清朝政府により膠澳に軍事要塞が建設されるに至り、現在の青島市中心部の開発が本格化しました。
1897年11月初旬、山東省曹州府一帯でキリスト教会への襲撃事件が多発し、ドイツ人神父2人が殺害され、それを口実としてドイツ帝国が膠州湾を占領するようになりました。
ドイツ帝国はこれを契機に1898年に膠州湾の租借権を獲得しました。山東省では、ドイツ植民地支配が開始され、ドイツ政府により、膠州湾岸、特に現在の青島市中心部の大規模な開発が進められていきました。
青島港は地理的には良い条件を備えていましたが、大型の船舶が寄港できる港ではありませんでした。ドイツは築港費5200万マルクを投入し、およそ7年をかけて5つの埠頭、全長4600メートルの大防波堤で囲まれた巨大な港湾を建設しました。
第1埠頭は、商船専用で、埠頭には4つの倉庫も建設されました。第2埠頭は海軍専用としました。第4埠頭は石油専用で、タンク船から貯油槽へ直接給油が可能となっていました。第5埠頭は、大型貨物専用の埠頭とし、青島造船所も立てられ船舶修理も可能となりました。
1914年、第一次世界大戦勃発とともに、日本軍は青島市を占領しました。大戦後も駐留を続ける日本軍に対し、1919年、中国への主権回復を求める五四運動が青島市で発生しました。1922年12月10日、ようやく中国国民党の北洋政府が日本から青島市を返還され、以後も山東省における重要貿易港となりました。
1937年、盧溝橋事件が起き、再び日本軍と中国国民革命軍との戦いが始まりました。1938年、再び日本軍が青島に再上陸し、青島市は日本軍の占領下に置かれましたが、日本がポツダム宣言を受諾し敗戦を認め、1945年に国民党政府に返還されました。青島は特別市とされ、米軍西大西洋艦隊の司令部が置かれました。国民党主席の蒋介石も度々青島八大関の「花石楼」に滞在しました。
しかし、日本が敗戦した結果、それまでの協力関係であった中国共産党(人民解放軍)と中国国民党政府(国民革命軍)の対立が激化し、ついに1946年6月から再び「国共内戦」が始まりました。
1949年6月2日に人民解放軍が青島に入城して青島は全面解放され、山東省管轄の都市になりました。
その後の中国の経済発展に、大きな功績を残したのは鄧小平(1904~1997)です。
深圳をはじめ珠海、汕頭、厦門などの広東・福建にある経済特区の設立、東南沿海地域にある秦皇島、天津、煙台、青島、連雲港、南通、上海、寧波、温州、福州、広州、湛江、北海の14都市の対外開放、アメリカや日本などの国々との関係正常化、一国二制度のもとでの香港の回収など多くの業績を残しました。
1984年より青島市は14の沿岸開放都市及び経済中心都市のひとつとなり、山東省の中においても、青島市の工業生産高は山東省の5分の1で重要なものとなりました。
現在、青島港は、青島旧港区、黄島油港区、前湾新港区、董家口港区などの4大港区で構成されています。市街地に近い北東側の旧港地区(老港)では、主にバルク、内航貨物、旅客船バースなどがあります。
西方の対岸にある新興開発された黄島・前湾地区では、コンテナターミナルや鉄鉱石、石炭、原油バースなどがあります。董家口港区は主にばら積み貨物の輸出入に利用されています。この董家口港区には、新たに世界最大級の40万トンクラスの鉱石バース(長さ510メートル、水深25メートル、年間取扱量は2500万トン)が、2010年に完成しています。その他には30万トン級の原油バースと2つの20万トン級の石炭バースが新設されています。
また、2017年には、青島前湾コンテナターミナル(QQCT)の第1期ターミナルが完成し、世界の巨大コンテナ船(24000TEU)の受け入れが可能となりました。その後、第2期、第3期、第4期ターミナルが完成し、世界に誇る全自動コンテナターミナルが稼働しています。
山東省は、渤海湾経済圏を構成し、経済規模では広東省に次いで第2位の大きさがあります。青島、威海などへ大韓民国や日本からの投資を集め経済の牽引役となっています。
2019年3月、山東省の商務省と財政庁は、外資系企業の誘致に向け奨励金を支給すると発表しました。最高1億元(約16億6000万円)を支給し、外資系企業の投資を呼びかけています。
山東省の貿易港としては、第1に青島港ですが、その他にも威海、煙台、日照、石島、浜州港、東営港、濰坊港(いほうこう)などの貿易港があります。
2019年8月、中国山東省港口集団有限公司が正式にスタートしました。
資本金は100億元となっています。山東省港口集団は、渤海湾港口集団、青島港集団、日照港集団、煙台集団を統合し、山東省の港湾などのインフラ整備を統括し、港湾経営一体化をはかっています。
2019年の世界の貿易港のランキングをもとに青島港の規模感を見てみましょう。(単位は万TEU)
このランキングが示すように、中国の港の取扱量は、他の国々を圧倒しています。
上記の港の中の青島、天津、大連の3港は、渤海湾経済圏を支える重要な港であり、中国の経済発展の中では、長江三角州や珠江三角州などの経済圏を超える成長率です。
渤海経済圏では、特に重化学工業、製鉄・鉄鋼業、精密機械製造業、その他石油化学工業が発展し、今後も大きな成長が見込まれています。
1位 | 上海 | 4330 |
2位 | シンガポール | 3720 |
3位 | 寧波・舟山 | 2754 |
4位 | 深圳 | 2577 |
5位 | 広州 | 2324 |
6位 | 釜山 | 2199 |
7位 | 青島 | 2101 |
8位 | 香港 | 1830 |
9位 | 天津 | 1730 |
10位 | ロサンゼルス | 1697 |
11位 | ロッテルダム | 1481 |
12位 | ドバイ | 1411 |
13位 | ポートケラン | 1358 |
14位 | アントワープ | 1186 |
15位 | 厦門 | 1112 |
16位 | 高雄 | 1043 |
17位 | ハンブルグ | 928 |
18位 | タンジュンペレパス | 908 |
19位 | 大連 | 876 |
20位 | 京浜 | 816 |
「青島港の歴史」は如何でしたでしょうか?
青島港は中国有数の国際貿易港であり、不凍港のため、中国経済を支える重要な港です。陸路には膠済線、高速鉄道の膠済旅客専用線などもあり、即墨区の藍村鎮からは煙台までの藍煙線が出ています。
2015年には地下鉄が開通しました。空路には国際空港があり、国内主要都市の他、日本や韓国とも結ばれています。
青島港の自動化コンテナターミナルは、世界最高の能率化を果たし、自動化走行クレーンの作業効率が1台につき、1時間当たり44.6基という最高作業効率を誇っています。
世界の自動化コンテナターミナルの見本ともなるような青島港に世界の港湾が注目しています。また高速フェリーのサービスと国際複合一貫輸送の組み合わせにより、大幅なトランジットタイムの短縮に成功しています。
今後も成長が期待される青島港からの物流は増々大きくなります。あらゆる物流のご相談は、物流のエキスパート、エフシースタンダードロジックス株式会社にお任せください